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来月で震災から10年。私たちが活動を開始したのは同年の7月。
7月から10月までの三ヶ月間で十数枚のマットを練習としており、そして11月に販売を開始しました。
オモトは三陸の小さな漁村地区。ですから多くの家屋被害や、人が亡くなるという数値的で示す記録的大災害にはならなかったのですが、実際の津波の高さの記録を後に見たとき、最も高い津波が襲った地区だったことを知りました。そして死亡者は一名だったのですが、死亡者数を抑えられた裏には前日に避難訓練をしていたという話を聞き、オモト地区の声掛け合い(愛)結束力の話には驚くばかりでした。
そんな小さな地区は、被災前は質の良い牡蠣や雲丹、昆布やワカメの流通が盛んで有名でした。
私たち夫婦はふたりで始めることを決意しました。
そして楽しく織る方があるなら、ケアを始めたのだから続けることだとも思ったのです。
当時、被災後二週間たらずの被災地に立った。壮絶な中に立たせていただく訪問をし、しっかり見たからです。
そして、のちに強く思った決意の二つ目。織りを楽しむ方たちのために続けること。
数々のプロジェクトが発起したり、多くの人が被災地にやって来ましたが、一日のイベンや数回。定期的な活動もありましたがいずれなくなっていくものでした。
仮設住宅に暮らさせていただいたこともあり、訪れた方々を見送る姿を何度も見ましたし、いらっしゃる方へ、むしろ配慮している心も知りました。
仲介役は織手さんが「やる」という限りサポートしようと決めました。
さらに時が経って感じた決意の三つ目。
手仕事の美しさ。清らかさ。優しさを知りました。
都会に暮らしていれば中心は自分や家族ですが、ここで学んだことは中心にあるのは自然ということ。
天気や四季に左右される仕事だからこそ、自然への礼がありました。
仮設住宅に入り、自分の土地や家についての先々の不安を、国や町の決定を待つ姿。
心の病になってしまうのが普通と思えました。
仕事に見合った広く機能的な家から小さく最低限の仮設住宅に移り、仕事は代わり、あるいはなく、
新鮮で季節の恵みをありがたく頂戴する食卓から、使ったこともない電気キッチンでの食になり、
なかったコンビニが登場し、便利だから利用する。身体が悲鳴をあげない方が不思議です。
組織的な活動に決してしない。売上げを出さない(全て織手さんと材料費)。クオリティを目指さない。品質などより良くと課さない。
手仕事であること。土地でできること。双方が生きる仕事であること。
最も大切なのは、仕事をする心の安らぎや喜びで、それが励みや力を生むという循環を損ねてはいけません。
楽しく織ること、そして続くことです。
大変な事態ばかりが続いたのです。この土地にいて、家族がいて、仕事と共に生きてきて。
可憐なスミレのような謙虚で美しい織手さんの力は美しいものでした。
交わした言葉は少ないですが、全身から、作品から、織手さんの姿勢である心を感じてきました。
小さな活動ですが、
今でも、たった一人の被災者の方が(かつては数名でしていました)、いまでもこうしてかつて想像もしていなかった「織りの暮らし」が続いていること…。
楽しく日々を歌うように織る。
織りは多くの人の歌となる。
また、織手さんの歌う手や心は風のように軽く通り、次の活動への意欲に。見る家族や周囲も楽しい気持ち。
そして今でも古布を寄付してくださる方あっての合唱、合奏。
すべてによって奏でています。
日本人の助け合い(愛)心によって生まれる力に感動するばかりです。
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